『虎屋 和菓子と歩んだ五百年』黒川光博著 新潮新書
”とらや”というと説明するまでもなく、羊羹を代表とした老舗中の老舗である和菓子企業です。
虎屋の屋号がいつごろどのようにして始まったのかについては定かではないようですが、虎という動物の神秘的なイメージにあやかってつけられたのではないかと黒川さんはいいます。
虎屋の店主は黒川家の当主が代々務めてきました。この本『虎屋 和菓子と歩んだ五百年』の著者である黒川光博氏は十七代目の当主で、現在の虎屋の社長でもあります。
中興初代は黒川円仲(えんちゅう)です。関ケ原の戦から大坂夏の陣を経て江戸時代の初期にわたる波乱の40年間を店主として過ごしたと記録にあります。
円仲以前の歴史は不明なところが多く、一説によると関ケ原で西軍方に与したために資料を処分したという話もありますが、円仲の姉が豊臣の家臣加藤嘉明に仕えた塙(ばん)団衛門直之に嫁いでいて、そこからの家系からいくつかの事実が判明したそうです。
初代円仲の実父は虎屋新助であり、黒川忠五郎詮成(のりしげ)とわかったのです。
虎屋の大永6年(1526年)創業という歴史は、日本の長寿企業ランキングでも上位に入ってきます。
お菓子業界でいえば、和歌山の煉羊羹で有名な駿河屋が寛正2年(1461年)、小田原のういろうが永正元年(1504年)、長崎のカステラ本家福砂屋が寛永元年(1624年)、伊勢の赤福が宝永4年(1707年)になっています。
光博氏はロゴを新装したり、TORAYA CAFEをオープンさせたりして、決して伝統だけにとらわれることない果敢な挑戦をされています。
虎屋のロゴ(上画像)は、以前記事にもしたアートディレクターの佐藤可士和さんの作品でもあります。
和菓子の進化とようかん
羊羹=ようかんはひつじにあつものと書きます。あつものというのは中国語でスープをいみしますので、羊羹とは羊の肉がはいったスープということになります。
羊羹は中国では羊の肉の入った饅頭、つまりは天心でした。
その羊羹という料理を鎌倉時代に日本に中国から持ち帰ってきたのは主に禅僧ですが、僧侶は肉を食べることができないために、小豆を羊肉に見立てて代わりに使ったのが今のような羊羹の始まりになりました。
羊の肉は赤い色をしているので、同じく赤い色をしている小豆が重宝されたのですね。こういうほかの食材で代用する文化は”見立て”の文化と呼ばれます。
「菓子」という言葉には、古代では果物や木の実という意味がありました。
和菓子は茶の湯の発展とともに進化していきました。その意味では精進料理を茶の湯で懐石料理にした歴史とも通底していますね。
茶の湯では菓子がだされますが、その原型は”麩(ふ)の焼き”と呼ばれる小麦粉を水で研いで薄く焼き、みそをまぶした食べ物です。お好み焼きの遠い先祖ともいわれています。
千利休が活躍した戦国時代には、ポルトガルから火縄銃とともに甘いお菓子である金平糖が伝わり、いよいよ現在のような甘い和菓子が誕生していく機運が生まれます。
今のような生菓子といわれる和菓子は”上菓子(じょうがし)”と呼ばれて一部の高級貴族や大名しか召し上がることはできませんでした。
いわゆる上菓子以外の庶民でも食べられる菓子は”駄菓子(だがし)”といわれたのです。
虎屋の変遷と発展
とらやは京都で宮中とのかかわりが深く、天皇や公家衆にお菓子を納めていました。つまりとらやは御所御用の御用達(ごようたし・たつ)でした。
御用達は戦前までは宮内省御用達として制度化されていたのですが、戦後廃止されました。御用達というと結構うさんくさい(笑)宣伝文句のところもありますが、虎屋は文字通りの御用達でした。
宮廷に商品を納入する商人を御用商人といいますが、これは鎌倉時代からだといわれています。
江戸時代、虎屋の古文書「御出入商人中所附(ちゅうところづけ)」に御用商人のお店の名前が載っています。
川端道喜、二口屋能登、虎屋近江、桔梗屋土佐、橘屋伊勢などです。
川端道喜(かわばたどうき)は現在でも京都北山に店舗があり、ちまきを中心に昔からの伝統的な製法で少量の御用品をつくっています。
二口屋は江戸時代に虎屋に吸収されており、明治まで残った御用菓子屋は虎屋と松屋の2点のみです。
松屋は今でも京都で盛業中です。
京都では御用商人として虎屋の格は成り立っていましたが、江戸時代は江戸での存在感は京都と比較して希薄でした。一度江戸に進出しようとして半年で撤退しています。
元禄時代ころから、京都の上菓子やが江戸へ進出して「下り京菓子屋」としてもてはやされていましたが、虎屋が店を設けた頃には有力な京菓子屋は出そろっていました。また関東出身の上菓子屋が幕府御用を務めるなど、江戸における菓子業界の勢力地図が固まっていたことも虎屋に不利に働いたのでしょう。
虎屋が東京に進出するのは明治時代になってからです。
明治の御代になり天皇が東京に遷都すると、御所御用で食べていた虎屋も慎重にですが東京へ進出します。
戦後、虎屋は商店から株式会社になり、それまでの家業から企業へと変貌します。
虎屋がその規模を拡大する契機になったのが、デパートへの進出でした。
最初の出店は西武池袋でした。今では虎屋は同一地区であっても複数の百貨店やデパートにお店を出すようになっています。
光博さんの父光朝さんは、パリに進出したりもして、販路を拡大しました。
その光朝さんの言葉に「和菓子は五感の芸術である」という言葉があります。
視覚、味覚、触覚、嗅覚はわかりますが、聴覚というとわからない人もおられると思います。
聴覚とは、和菓子に着けられた名前を聴いて楽しむということです。
例えば、「薄氷(うすらい)」という菓子。これは初冬のある朝、紅葉が池の氷に閉じ込められている情景を、道明寺生地の中の煉羊羹で表したものです。「春霞」「初蛍」「紅葉の錦」など、それらの菓銘を耳にするだけで季節のうつろいすら感じ取ることができます。
虎屋の和菓子には源氏物語にちなんだ名前が付けられていたりしますが、去年行われた京菓子展のテーマは、「手のひらの自然ー源氏物語」でした。
京都の宮廷文化とともに発展してきた京都の上菓子の風流さが反映されているわけです。
江戸時代の労務管理
とらやには江戸時代に書かれた九代当主光利による掟書(おきてがき)が残っています。そこには現代にも通じる労務に関する決まり事が記録されているのです。
個人的におもしろかった注意書きを抜き出してみます。
- 菓子の製造にあたっては常に清潔を心がけ、口や手をたびたび洗うこと
- 倹約を第一に心がけ、良い提案があれば各自文書にして提出すること
- 上の者でも手落ちがあった場合は遠慮なく注意しあって常に「水魚の交わり」を心がけること
1番目の清潔にすることは、食品を扱うお店ですから当然のことですが、江戸時代から衛生面についてしっかりとした注意がなされていたことは現代にも通じる話です。
2番目の良い提案があれば文書にして出すことは、文書としているところが記録として残すことで公的な意味合いを出すというところが、現在に通じる書式文化を反映していてとても面白く思いました。
3番目の水魚の交わりとは水と魚がわけることができないように、お互い切っても切り離せない仲良しな関係のことを表しています。
職位が上のものであっても、なにか間違いがあった場合は遠慮しないで指摘できる関係であることとは、パワハラが頻繁に問題なる現代の日本企業にあっては江戸時代のほうが先進的であったともいえるかもしれませんね。
実際、虎屋では奉公人は大切にされていました。
給金は一年に白銀五枚と半季に金二分。給金のほかに小遣いや褒美もあります。これは仕事ぶりに対する報奨金に当たるものでしょう。また、独立に向けて積み立ても行われており、甚兵衛はそのうち金一両を借用していることまでが記録されています。
ちなみに虎屋では黒川家のものは当主一人しか入社を許されないそうです。
一族間で経営上の食い違いが起こると会社が傾く契機になりかねないということから、そのような芽を事前に摘んでおくという心がけなのです。
以前紹介した滋賀の和菓子屋さんの「たねや」も、お店の味を決めるのは主人一人に任されていて、先代も口をはさめないといいます。
この本には虎屋のようかんが南極でも重宝されたり、戦争で工場が焼けてしまった時には住民の方に無料で提供して涙を流さんばかりに感謝されたりしたエピソードが描かれたりして、虎屋激動の500年を通読できます。
また黒川さんがエルメスの日本支社長と対談した本も面白いのでお薦めしておきます。